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タモさんのぶらタモリを彷彿とさせる切り口の動画はむしろ好きです。
ありがとうございます。受信料の要らないジェネリックブラタモリでございます。
んで、高校も一緒やし。。
「福岡」と聴いただけでワクワクする自分を抑えることができません。15歳で離れたものの故郷なんですね。歴史好きの自分にとっては、こんな楽しい動画は見逃せません。雨の中、ありがとうございます。
ありがとうございます!昔懐かしの福岡の雑学、楽しんでいただけたなら良かったです。僕は歴史にはあまり詳しくないので、地理の観点からウロウロしております。
今回は途中から雨の中徒歩でお疲れ様でした元寇防塁跡は今宿の向こうまで続きますよねこの長い海岸線を守るのはさぞかし大変だったでしょうね鎌倉時代の武士たちの苦労が偲ばれますそれを思えば今尖閣諸島の警備をする海上保安庁や島嶼防衛に当たる自衛隊に感謝します
防塁は今津まで続いていたそうですよ。道も良くなかったでしょうし、歩きと馬でここを守るのは大変だったと思います。博多湾も大きいですからねー。それを考えると、確かに海全部を見ている海上保安庁は本当に大変だと思います。
動画の最初から最後まで、小学生の頃に自転車でウロウロしていました。学校の遠足も愛宕神社か小戸公園でした。愛宕から小戸までのマリナ通り沿いに海岸線あとの堤防がそのまま残っています。唐津街道、姪浜にある住吉神社は西方沖地震で倒れた鳥居をクイズ・ミリオネアの賞金で立て直したとして地元では少し有名ですw近隣には戦国武将の大谷吉継が一時身を隠したとされる興徳寺などもあります。子供の頃を思い出す楽しい動画でした。😁
百道から小戸のあたりは良いところですねー。西方沖地震で倒れた鳥居をミリオネアの賞金で…!?意外な情報にびっくりです。ありがとうございます。
一緒に散歩をしている気分になれて、今回もとても面白かったです!
ありがとうございます!実際に散歩してみると、また面白いですよー。
蒙古襲来は当時の幕府にとっては本当に難しい事態だったと思います。台風に助けられましたが大半は当時の武士の奮戦によるものでした。蒙古の兵士は対馬などではやり放題(^-^;しかし、2度目は日本軍も蒙古・高麗の兵士の首を山ほどとって塚が出来たといわれます。専守防衛の典型的な戦いでした。
蒙古襲来は、戦って勝っても敵地は奪えず、禄を与えられず苦労したとかなんとか聞きますね。ウクライナを見ていても思いますが、基本的には防衛戦は防衛側が有利なのでしょうね。
懐かしいです。30年前まで姪浜に住んでいました。小戸の元寇防塁のところで細々と遊んでいました。友達が元寇防塁のところに穴を掘ったら土の中が異様に温かくて逆に肝が冷えた思い出があります。外海に面した糸島に来て元寇防塁とは縁が遠くなったと思いきや、2001年の大河ドラマの元寇の戦闘シーンが糸島の沖合いで撮影され、幕府に協力した九州をメインに活動していた松浦党の倭寇役を演じていた人々がが小舟で芥屋大門から出てくるシーンが見られました。
小戸の防塁はかなり綺麗に残っていますね。土が温かかったというのは怖い😨大河ドラマ、北条時宗でしたっけね。芥屋大門が出てきた記憶がありませんが、大河ドラマに柱状節理😎素晴らしいです。見所はそこじゃないんですけど。
西新在住です。母校とか近所が紹介されるのは嬉しいですね✨
あと「餃子っしょ」ではなく「よござっしょ」だそうです笑流石に聞き取れないですよね笑
よござっしょ!?なんですね笑餃子っしょ!にしか聞こえません。
@@chiri_rider うちの娘も近所に販売車が通る度に餃子っしょ~って言ってます笑
いつものバイクの視線と違ってまた魅力的な回でした。たまには「ひとりブラタモリ」もいいですね。元冠防塁の石を積み上げ、必死に護ってくれた鎌倉の武士たちに深い感謝の念を抱きました。ところで、お豆腐やさんの販売カーが≪おきゅうと~≫と言ってましが、九州北部では今でもおきゅうとアブッテカモの朝食を摂られているのでしょうか?
歩きの回も、割とありますよ。歩きのほうが細かいところをしっかり見ることができますが、疲れてへとへとになるのが欠点です。おきうとも、あぶってかもも僕は食べません。海鮮嫌いですからね。
地理ライダーさんの動画にしては、「柱状節理」も「スコリア」もそして歌謡曲もなくて、三年前はこんなスタイルだったんだとちょっとびっくりしました。こうやって地形に着目して歴史を考えるとわかりやすいですね。ありがとうございました。
元寇防塁は、砂州がメインなので「柱状節理」「スコリア」は登場しようが無いのです笑最初は、お歌はほぼありませんでしたね(毎回ではなく、本当に時々でした)砂州の微妙な起伏を見て回ると、どのように防衛したのかが見えてきます😁
10:13 小戸は炭鉱があった事もあり、その頃防塁は撤去されたのかも知れませんね10:30 海底炭鉱だったこともあり、この小戸の浜には現在でもぼたがごろごろ落ちてますなのでその辺りの地質を調べてみるのも面白いかも知れません
そうです、このあたりはボタ山です。地質図と等高線にもそれが現れています☝️特にマリナタウンのところが規模が大きいように見受けられますね。炭鉱にとって邪魔な場所であれは、おそらく崩されたでしょうね〜😞
防塁の跡をたどれば昔の海岸線がよく分かりますね!埋め立てれてない生の松原は海岸線が近い♪西南学院大学にも行ったことあるし、よかトピア通りもたまに通るのに元寇防塁をスルーしてましたw
その通りです。生の松原は埋め立てられていないので、海のすぐそばです。西新のあたりも、こんな景色だったんでしょうね。この付近は通ることは多いと思いますので、一度防塁も見てみてください!
ブラ地理ライダーのシリーズ、いいですね。
ありがとうございます。バイク乗らない方が良いのかな?と思ったり笑でも歩きの方が細かい話ができますね。
海岸線といえばマリノアとマリナタウンの間のベスト電器の歩道の所に防波堤がそのまま残っていますね。
あ!言われると、変なコンクリートの壁があった気がします。あれは防波堤の跡なんですね😲
小学校の時夏休みのラジオ体操はこの防塁であってました。
防塁の上、松原とか公園とかありますもんね。もともとは砂州なんですよ😁
@@chiri_rider ありがとうございます。この穴の中で体操したこともありました。
@@hon6492 え!あの穴の中で?笑
はい。別に怒られませんでした。
7:06 「餃子っしょ」は「よござっしょ」だったと思います。
あ~!よござっしょ、なんですね。あんまり言わない言葉だと思いますが…笑
名柄川河口は、5月頃から潮干狩りのポイントです。干潮時間なら川辺に降りる事ができますが、車は駐車場が周辺には無いし路駐厳禁!(住宅地付近なので)注意必要です。また生松原はこの時期(4〜6月)白キス釣りに最適!懐かしいなーよく名柄川河口で餌の岩ゴカイを採取し生の松原キス釣りに自転車で直行してました!有難うございます。
潮干狩り、釣り、どちらも見かけました。名柄川で餌を取って、生の松原で釣りをするって、すごく効率的です笑でもそれ、実は元寇防塁を辿ってたということですね。
懐かしい! 45年前程の学生時代に戻りました。 海岸がそこまで迫ってたな~。
まだ百道浜の埋め立て前でしょうか。ここが海岸だったんですね〜。
ライダーさんお疲れ様でした。。。雨が降りそうだったから、歩きだったんですか?昔西区の橋本に住んでた頃、歩いて、小戸公園には行ってたんですが、こういった場所が有るとは知りませんでした。。生の松原は通過するだけで、浜辺まで行った事なかったし、残念です。コロナが落ち着いたら、行ってみるのもありですね^ ^
追伸]だーれだは私も柴田理恵に見えました(笑)
小戸公園に防塁跡があるとは知りませんよね。よく分からない微妙な感じなので、有名にはならないよな思いますけど…笑生の松原は駐車場がないので行きづらいですよね。電車であれば下山門駅から歩いて行けますよ。長谷川町子はどう見ても柴田理恵です笑
西新から防塁はすぐなんですね、はるか海寄りかと思っていて全く知りませんでした。全体的に当時の海の近さに驚きますが、そこら辺は他の動画に収められているでしょう、見てみます。
埋め立て前は西新が砂州の海岸だったのです。明治通りの動画で、かつての海岸地形の話をしていたと思います。
歩きや電車もいいですね。鎌倉時代は海水面が0.5メートル高かったですね。
歩きは、バイクや車の置き場を気にしなくて良いのと、ゆっくり移動しながら細かいところまで見られるのが良いですね。平安から鎌倉時代は海水面が少し高かったんです。
ライコランドの作業待ちでは生の松原を散歩してます😅良い場所なのに駐車場が無いからあまり人が訪れなくてもったいないなと感じました。
ライコランドありますね!すぐ横には井手ちゃんぽんも。作業待ちに松原に出られるのは良いですね。駐車場がないので、基本的に電車なのは確かに残念です(それも今回徒歩を選んだ理由の一つです)。
九州大学の演習林ということもあり、駐車場設置は消極的なのかもしれません。それに演習林から外れた僅かな土地に家やマンションが立ち並んだことから駐車場設置を難しいものにしています。また、数年に一度生の松原で放火やバーベキューの火の消し忘れによるボヤがあるのを考えると、駐車場設置に二の足を踏むのは仕方ないと思います。。
鎌倉幕府が懸命に築いた防塁での戦闘は殆ど行われなかった。防塁を見た元軍は上陸をあきらめ対岸の小島に停泊し、防塁のない砂州でできた狭い「海の中道」で日本側と激しく戦い敗退し、さらに西の鷹島方面に移動した。つまり幕府軍本体は元軍の船の移動についていけず取り逃がしたのだ。鷹島では地元の日本の武士達と海戦になり、元軍は膠着状態の中で台風に襲われた。その後、ようやく幕府の本体が到着し、今度は本格的な掃討戦を弱体化した元軍に対しおこなった。虐殺に近い戦闘が起き、元軍の死者の大半そこで発生した。台風により元軍が一瞬で全滅したというのは後世のつくり話だ。
戦闘が博多だけではないということは知っていましたが、かなり蒙古軍は広範囲に逃げ回っていたんですね。麁原山が一時占領されたという話もありましたが、元弘・弘安どっちだったか。いずれにしても、海の向こうへ攻め込むのは大変なんだなと思います。
志賀島に蒙古の墓があるのはそのためですか?
防塁と柴田理恵。。似合ってる。。
似合ってます?😂️
前回のコメでは、百道浜の砂州(「土・砂州」と同じです)が産み出したさまざまな創出物について考えましたが、もう一点、肝腎な役割を失念していましたので、若干、追補させて下さい。 今でこそ、元寇防塁は、『史跡』として公的に保存・保護されています。しかし、元寇に付いてまわる「神風(カミカゼ)」のイメージが、前大戦で多くの若人を散華(サンゲ)させたアノ「神風特攻隊」と二重写しになったせいなのか、敗戦から長い間、防塁史跡は無視され、蔑(ないがし)ろにされてきました。むしろ、誰も目にしたくない“敗戦の負の象徴”とも見られていたフシすらありました。ただ、それは不当な責任の転嫁で、防塁と先の大戦敗北とは全く無関係なことは自明です。 もっとも、それは昔(17世紀初頭)から、「遺跡は、単なる過去の遺物・邪魔者」という考えも根強く、ライダーさんのコメにもありましたが、初代・福岡藩主の黒田長政が、福岡城建設の石材として防塁を利用し、これを破壊したという歴史も残っています。それは、エジプト・ギザの(クフ王の)大ピラミッド(金字塔)の表面の化粧石がハギ取られ、都市建設の石材として利用された歴史と同じです。 元寇の第二波(1281年の「弘安の役」)を前にして、国家存亡という危機感に動かされ、博多湾沿岸に20km余に亘って水際対策としての防塁網が造設されます。ただ、その役割を終えた後は、地表に見える分は、“ 邪魔者 ”扱いされ、ただ破壊を待つだけの石コロの山に過ぎませんでした。そんな風潮の中でも、土・砂に埋まった目に見えない分までも掘り起こして利用するまでには至らず、幸運な防塁は土・砂州に埋れていたお陰で、人的破壊を免れたのです。 その土・砂州は、愚かな人間の破壊行為から防塁史跡をソット覆い隠し、結果として、史跡を保全・保存するという天の差配ともなったのです。 昭和40年代の初めの頃、新たな人権として『環境権』の提唱がありました。その一カテゴリーとして「入浜権」(海浜保全)ともリンクする「史的・文化的環境権」の提唱もありました。この人権は、国や自治体の行政施策のプログラム(要綱)として史跡・文化財等の保全を命ずるにとどまらず、更に、国民が、裁判を通して行政の開発許可の「取消」や「無効確認」を求めたり、行政への現状の保全・回復等の「義務づけ」を求め得る、というものです。尚、同人権の(主観的)権利性については未だ未承認ではあるものの、その反射的効果もあってか、漸く、元寇防塁史跡も行政のプログラムよる保存の対象とされるに至って現状があります。行政も、その歴史・文化的な価値を認めざるを得ず、元寇防塁の調査に乗り出し、風雨に晒されて散逸した防塁の石のカケラを拾い集めてその修理・復元に着手し始めます。しかし、不可回復の部分もあり、長く無視してきたツケは少なくないようです。 要するに、海の土・砂州が、元軍の上陸阻止という功を果たした防塁史跡を、人的破壊から目隠しし、長い時間、保全・保存してきたということです。オリジナルの防塁の一部を何回か目にしたことがあります。しかし、再生・復元されたコピー(模造品)と比べると、迫力も臨場感も全く違います。国家存亡という国難を背景に造設された往時の防塁には、当時の国人(クニビト)の切なる想いや危機意識・国防意識が深くキザミ込まれていて、決して美しくはないものの、鬼気迫る迫力があります。人の「石を積む」という行為には、何か”祈り“のような精神性が込められているのかもしれません。そんな石達からは、「何時までも平和ボケしていられて、エエ時代ですネ」いう皮肉のツブヤキが聞こえてくるようです。………(多分)ソラミミかもしれませんが………。
なるほど、防塁は神風のイメージにとって邪魔者だった時代もあるのですね。砂州に埋もれることで結果的に守られた、というのも納得です。百道地区では確かにほとんど埋まっていました。修復された部分はどうしても石の色や風合いが浮いていて、本物とは歴史の重みが全く適いませんね。生の松原の復元された防塁もそうでした。当時は防衛という切迫した目的で作られましたが、今は学習用ですから、やはり石の表情も全く違うように見えますね。ありがとうございます。
今回もなかなか楽しい映像でした。残念なのが、せっかく西南学院大学まで行ってらっしゃるのに、同校の校舎内にある復元された元寇防塁を御覧になっていないのが、実に残念!! まぁ、地形がわかるような場所じゃないので仕方ないともいえますが……。西南大学構内の元寇防塁は、校舎内の1部を解放して復元してあるので、歴史に興味がある方は、同校内の元寇防塁(鎌倉時代当時の名称は「石築地(いしついじ)」で「元寇防塁」は近代になって考古学者が名付けた学術用語なのですが…)を是非視てください。誰でも自由に入れます。
ありがとうございます。西南学院大学の中の防塁は看板を見かけたのですが、平日のみ公開と書かれていたので、行きませんでした。なかなか平日に行ける機会が無いんですが、ぜひ見に行ってみたいと思います。
防塁の交差点から南に少し行くと,元寇の古戦場の蘇原(そはら)山があります.また,今宿から北へ,今津の運動公園のちょっと先にもまとまった防塁跡があります.
昔の表記は「麁原」ですね。まず使わない漢字です。今津の防塁も見に行ったことがあります。箱崎にも砂州の下に埋まっているらしいですよ。
@@chiri_rider ああ,しまった.山(丘)の名前は未だに「麁原山」なんですよ.ボクが小学生の時の区画整備でここいらの地名が「祖原」に変更されて,地名,町名としては「祖原」になったという経緯です.
保存されてリアルに残っている今津の元寇防塁もご紹介下さい
今津も行ったことありますが、動画では未登場でしたね。見に行きたいと思います😊️
キャー!今日は、歩きなんですか。ここあたりは、自転車がよかごたぁですね。
確かに、自転車が一番良さそうですね。
元寇の第1波、「文永の役(1274年)」の古戦場の一つとなった(今はなき)“ 百道(ももち)浜 ”。この浜は、早良区の藤崎〜西新の北にあった海浜で、室見川と樋井川に挟まれ、東は地行(じぎょう)浜に接し、西は室見河口の愛宕山(元寇前は鷲尾山(権現)、その後は鎮西探題城、または姪浜城)を望む地勢にありました。この浜の名の由来は、この海が広い遠浅で、大潮の時季には広大な干潟が現れて、潮干狩りが楽しめたことから、大勢の人々の夥(おびただ)しい足跡が砂州に刻まれ、まるで“百千(ももち)の道”のごとくに見えた、ということにあるようです。事実、昭和30年代の初めの頃までの百道は、全く昔のままで、多くの人々が楽しめる絶好の海水浴場で、大潮時には潮干狩りが楽しめました。ただ、30年代の後半から、高度経済成長の中で(軽率な)都市排水の直接導入が始まり、富栄養化がこの海を徐々に蝕み始めます。それは別の話として……、 どうしてかような遠浅の海が生まれたのか。この両河川は、「中洲」という大きな三角州を持つ那珂川と異なり、三角州を持ちません。それは、この両河川の水体の流速が、海水圧を凌ぐ程に速く強かったのか(10cm/s{毎秒}以下で砂が、1cm/s、以下で泥が沈殿し始める、とするデータもあります)、土・砂が河口に洲を作らずに、そのまま海に流入し続けたのが原因かと思います。経験に照らすと、ここの干潟は、純白の砂ではなく、全体に灰色で、貝類が好みそうな栄養素の豊かな砂質だった記憶があります。しかし、後年、この海のその特質と汚染が(悲しい哉)「埋立て」化の遠因となります。 そんな海底の土・砂が、長い時間を経て、波の力で浜辺に運ばれ、それが風の力で陸側に吹き上げられて、東西にカマボコ状に長く延びた帯状の陸の複数の砂州(正確には「土・砂州」)が醸成されたのでしょう。砂漠の砂州が、風の力によって日々変化することはよく知られていますが、それは、時間のスパンを伸ばせば、地上の土・砂州でも同じことなのです。しかし、それにしても海とは不思議なもので、土砂の流入を繰り返せば海は土砂で埋まってしまう理屈ですが、現実はそうはなっていません。この海は、キット生きていて、土砂を外部に噴き出し続けることによって[ 自力浚渫 (しゅんせつ)]しているのです。その噴出が陸に土・砂州を間断なく作りつづけ、さらに数万、数十万年という長い長い時間の中で砂州の原材料が地下に沈み込み、地層化して20m〜30mという分厚い砂質土の地層をもこの地に作ったのでしょう。これらの一連の海の営みは、キット複雑な海浜生態系の一面なのです。 防塁の下地となった(噴出した)土・砂州の高さは(想像ですが)精々1〜2m程で、幅は10m前後だったのでは、と想像しています。この2m程の高さでも、防塁の2m〜2,5m分と、海浜自体の海抜・標高(海水面は常に変動)分を足すとMax, 5〜6m、程になり、戦略的には、その程度でも、敵軍を視覚的に威圧する防塁としては十分な高さでした。また、この陸の砂州は、サラサラと崩れるような脆弱な砂州ではなく、塩分のある土・砂州ですから、踏まれて陽に晒され固まれば一定の強度はあったでしょう。 防塁が造設された土・砂州の第一のライン(X1とします)が、動画にもあった、750 年前の、西南学院大学の校地内の(再現)防塁や史跡・防塁跡、また「元寇神社」のあったラインです。また、このX1,の南、500m程下った辺りに、当時、既に別のライン(X2)が存在していたか、又は形成されつつありました。このX2は、(後年)福博の街の背骨を形作ることになる「明治通り」で、旧・西鉄の市電が走り、現在の市営地下鉄が走っているラインです。そして、何の障害物もなければ、このようなラインが波打つかのように、X3〜Xx、へと続いていた可能性があります。しかし、X3、以下は、人為的な要因(畑耕作や整地等)によって消去されて、残っていません。x3以下の土・砂州の行方は不明で、長い時間を経て飛散・沈殿して地層化して行ったのでしょうか。上のX1、X2のラインは、百道(又、地行)浜が遺した目に見える唯一の存在証明(レーゾン・デートル)だったのかもしれません。 なお、前記のように、浜の土・砂洲は、複数のラインを作ったのみならず、長い時間の中で、早良(さわら)平野の北部(3〜4km)の地質である「砂質土」をも作りました。それは、市営地下鉄の建設に先立つボーリング調査で明らかとなりました。室見~藤崎〜西新駅の地下構造は、25m以上のぶ厚い砂質土が堆積しており、したがって、トンネル工法も地層の質に対応する工夫が求められ、当然、駅自体も約30mという異例の深さとなったようです。なお、砂質土が薄くなる(旧浜辺から南に4キロメートル辺りから)、50cmも掘ると真っ白な砂地が現れたり(この地域が古代には遠浅の海の底だったことを窺わせます)、また、「皿山」付近では赤土(陶土)層や砂岩(岩盤)が露出したりで変化もあります。意外かもしれませんが、昭和30年代の中葉の頃、皿山には砂岩を採掘する{石切場・採石場}もあったのです。 当地域は、地形的には、X1、を頂点にして、旧・筑肥線辺りのラインまで極めて緩やかに南に傾斜し、落ちこんており、それ以南はほぼフラットな水田地帯となっていました。その中間の昭代町の藤崎ポンプ場辺りは、下水道のインフラが整備されなかった時代には、少し大雨となると、タチマチ「内水洪水」を起こすのが常でした。今で想像できませんが、この路線以南には、油山の裾野まで続く広大な穀倉地帯だったのです。この平野の北部は、水ハケが良く(反面、水持ちが悪い)畑地帯で、南部は、水ハケが悪く(反面、水持ちが良い)水田向きの地質・地形だったのです。以前の筑肥線の西新駅辺りの呼称に、「大牟田」という時代もありました。それは、池沼が多い湿地帯を指すものです。このような土地利用の区分も、遡(さかのぼ)れば、百道浜の存在とX1、X2、等の存在、そしてそれによって定まった地質の変化等抜きにはあり得なかったのでは、と思います。1989年開催の「アシア太平洋博覧会(よかトピア)」の跡地に立っている「福岡タワー」を見るにつけ、それが、百道浜の墓標にも見えたりもします。幼い日々の想い出がタクサン詰まった百道浜は、私の中での永遠の「宝物」デス。 個人的な想いはトニカク、この百道浜からつながる早良平野の北部には、弥生後期から3〜4世紀頃の貴重な「藤崎遺跡」が発掘されており、土師器(ハジキ)の等の生活用具の他、大量の甕棺(カメカン)群(集団墓地か?)や、石棺内の“三角縁神獣鏡”が発掘されたりしています。その史跡は、食料庫でもあった百道浜とは指呼の間にあり、多分、多くの人々にとって、百道浜は生活の母胎であり、想いの詰まった”マホロバ“のような場所だったのです。百道浜は、多くの人々の想いが「百千(モモチ)の如くに」ウズクマル場所だったに違いありません。ただ、12〜13世紀の頃の当地の状況が今ひとつハッキリしないのが残念ではありますが…………。P、S、地理ライダーさんへ。また、カナリ長めになり、すみません!!
砂州が複数の列を形成し、その上に集落が帯状に並ぶことは地理的にもよくある、典型的な地形です。福岡の砂州もそうなっているのですね。確かに、内陸の方は宅地化していて痕跡も失われている?もしくは、海水面の高さの変化で見えなくなっているのかもしれませんね。かつての福岡平野と百道浜の光景、どんなものだったのだろうかと想いを馳せると、面白いですね。今は住宅だらけですが、非常に浪漫があります。百道は、「百千の浜」が語源なのですね。なるほど…。色々と情報をいただきありがとうございます。
じっくり読み込ませて戴きました。鞍手に住み糸島を故郷としている自分には実に興味深いお話をありがとうございます。いくつになっても、遠く離れで済んでいますが、15歳までの地は故郷ですね。歴史好きの自分にはもっともっと福岡が知りたくなります。
砂州は沖合にできる地形ですよね?
砂州は沖合に限らず、「海水面付近にできる地形」というのが正しいですね。川が海水面の高さまで下りてくると、流れが遅くなって土砂の運搬力が弱まります。この土砂が、海流などで一定方向に運ばれ積もってできるのが「砂州」です。動画内でも少し触れていましたが、平安時代~鎌倉時代の頃は海水面が今より高かったので、西新の辺りが海岸線でした。この元寇防塁の砂州は、当時の海岸線付近にできたものです。
タモさんのぶらタモリを彷彿とさせる切り口の動画はむしろ好きです。
ありがとうございます。受信料の要らないジェネリックブラタモリでございます。
んで、高校も一緒やし。。
「福岡」と聴いただけでワクワクする自分を抑えることができません。15歳で離れたものの故郷なんですね。
歴史好きの自分にとっては、こんな楽しい動画は見逃せません。雨の中、ありがとうございます。
ありがとうございます!昔懐かしの福岡の雑学、楽しんでいただけたなら良かったです。
僕は歴史にはあまり詳しくないので、地理の観点からウロウロしております。
今回は途中から雨の中徒歩でお疲れ様でした
元寇防塁跡は今宿の向こうまで続きますよね
この長い海岸線を守るのはさぞかし大変だったでしょうね
鎌倉時代の武士たちの苦労が偲ばれます
それを思えば今尖閣諸島の警備をする海上保安庁や
島嶼防衛に当たる自衛隊に感謝します
防塁は今津まで続いていたそうですよ。
道も良くなかったでしょうし、歩きと馬でここを守るのは大変だったと思います。
博多湾も大きいですからねー。
それを考えると、確かに海全部を見ている海上保安庁は本当に大変だと思います。
動画の最初から最後まで、小学生の頃に自転車でウロウロしていました。学校の遠足も愛宕神社か小戸公園でした。
愛宕から小戸までのマリナ通り沿いに海岸線あとの堤防がそのまま残っています。
唐津街道、姪浜にある住吉神社は西方沖地震で倒れた鳥居をクイズ・ミリオネアの賞金で立て直したとして地元では少し有名ですw
近隣には戦国武将の大谷吉継が一時身を隠したとされる興徳寺などもあります。子供の頃を思い出す楽しい動画でした。😁
百道から小戸のあたりは良いところですねー。
西方沖地震で倒れた鳥居をミリオネアの賞金で…!?意外な情報にびっくりです。
ありがとうございます。
一緒に散歩をしている気分になれて、今回もとても面白かったです!
ありがとうございます!
実際に散歩してみると、また面白いですよー。
蒙古襲来は当時の幕府にとっては本当に難しい事態だったと思います。台風に助けられましたが
大半は当時の武士の奮戦によるものでした。蒙古の兵士は対馬などではやり放題(^-^;しかし、2度
目は日本軍も蒙古・高麗の兵士の首を山ほどとって塚が出来たといわれます。専守防衛の典型的
な戦いでした。
蒙古襲来は、戦って勝っても敵地は奪えず、禄を与えられず苦労したとかなんとか聞きますね。
ウクライナを見ていても思いますが、基本的には防衛戦は防衛側が有利なのでしょうね。
懐かしいです。30年前まで姪浜に住んでいました。小戸の元寇防塁のところで細々と遊んでいました。友達が元寇防塁のところに穴を掘ったら土の中が異様に温かくて逆に肝が冷えた思い出があります。外海に面した糸島に来て元寇防塁とは縁が遠くなったと思いきや、2001年の大河ドラマの元寇の戦闘シーンが糸島の沖合いで撮影され、幕府に協力した九州をメインに活動していた松浦党の倭寇役を演じていた人々がが小舟で芥屋大門から出てくるシーンが見られました。
小戸の防塁はかなり綺麗に残っていますね。
土が温かかったというのは怖い😨
大河ドラマ、北条時宗でしたっけね。
芥屋大門が出てきた記憶がありませんが、大河ドラマに柱状節理😎素晴らしいです。
見所はそこじゃないんですけど。
西新在住です。
母校とか近所が紹介されるのは嬉しいですね✨
あと「餃子っしょ」ではなく「よござっしょ」だそうです笑
流石に聞き取れないですよね笑
よござっしょ!?なんですね笑
餃子っしょ!にしか聞こえません。
@@chiri_rider うちの娘も近所に販売車が通る度に餃子っしょ~って言ってます笑
いつものバイクの視線と違ってまた魅力的な回でした。たまには「ひとりブラタモリ」もいいですね。元冠防塁の石を積み上げ、必死に護ってくれた鎌倉の武士たちに深い感謝の念を抱きました。ところで、お豆腐やさんの販売カーが≪おきゅうと~≫と言ってましが、九州北部では今でもおきゅうとアブッテカモの朝食を摂られているのでしょうか?
歩きの回も、割とありますよ。
歩きのほうが細かいところをしっかり見ることができますが、疲れてへとへとになるのが欠点です。
おきうとも、あぶってかもも僕は食べません。海鮮嫌いですからね。
地理ライダーさんの動画にしては、「柱状節理」も「スコリア」もそして歌謡曲もなくて、三年前はこんなスタイルだったんだとちょっとびっくりしました。こうやって地形に着目して歴史を考えるとわかりやすいですね。ありがとうございました。
元寇防塁は、砂州がメインなので「柱状節理」「スコリア」は登場しようが無いのです笑
最初は、お歌はほぼありませんでしたね(毎回ではなく、本当に時々でした)
砂州の微妙な起伏を見て回ると、どのように防衛したのかが見えてきます😁
10:13 小戸は炭鉱があった事もあり、その頃防塁は撤去されたのかも知れませんね
10:30 海底炭鉱だったこともあり、この小戸の浜には現在でもぼたがごろごろ落ちてます
なのでその辺りの地質を調べてみるのも面白いかも知れません
そうです、このあたりはボタ山です。地質図と等高線にもそれが現れています☝️
特にマリナタウンのところが規模が大きいように見受けられますね。
炭鉱にとって邪魔な場所であれは、おそらく崩されたでしょうね〜😞
防塁の跡をたどれば昔の海岸線がよく分かりますね!埋め立てれてない生の松原は海岸線が近い♪西南学院大学にも行ったことあるし、よかトピア通りもたまに通るのに元寇防塁をスルーしてましたw
その通りです。生の松原は埋め立てられていないので、海のすぐそばです。
西新のあたりも、こんな景色だったんでしょうね。
この付近は通ることは多いと思いますので、一度防塁も見てみてください!
ブラ地理ライダーのシリーズ、いいですね。
ありがとうございます。
バイク乗らない方が良いのかな?と思ったり笑
でも歩きの方が細かい話ができますね。
海岸線といえばマリノアとマリナタウンの間のベスト電器の歩道の所に防波堤がそのまま残っていますね。
あ!言われると、変なコンクリートの壁があった気がします。
あれは防波堤の跡なんですね😲
小学校の時夏休みのラジオ体操はこの防塁であってました。
防塁の上、松原とか公園とかありますもんね。もともとは砂州なんですよ😁
@@chiri_rider ありがとうございます。この穴の中で体操したこともありました。
@@hon6492 え!あの穴の中で?笑
はい。別に怒られませんでした。
7:06 「餃子っしょ」は「よござっしょ」だったと思います。
あ~!よござっしょ、なんですね。
あんまり言わない言葉だと思いますが…笑
名柄川河口は、5月頃から潮干狩りのポイントです。干潮時間なら川辺に降りる事ができますが、車は駐車場が周辺には無いし路駐厳禁!(住宅地付近なので)注意必要です。また生松原はこの時期(4〜6月)白キス釣りに最適!懐かしいなーよく名柄川河口で餌の岩ゴカイを採取し生の松原キス釣りに自転車で直行してました!有難うございます。
潮干狩り、釣り、どちらも見かけました。
名柄川で餌を取って、生の松原で釣りをするって、すごく効率的です笑
でもそれ、実は元寇防塁を辿ってたということですね。
懐かしい! 45年前程の学生時代に戻りました。 海岸がそこまで迫ってたな~。
まだ百道浜の埋め立て前でしょうか。ここが海岸だったんですね〜。
ライダーさんお疲れ様でした。。。
雨が降りそうだったから、
歩きだったんですか?
昔西区の橋本に住んでた頃、
歩いて、小戸公園には行ってたんですが、
こういった場所が有るとは知りませんでした。。
生の松原は通過するだけで、
浜辺まで行った事なかったし、残念です。
コロナが落ち着いたら、
行ってみるのもありですね^ ^
追伸]だーれだは私も柴田理恵に見えました(笑)
小戸公園に防塁跡があるとは知りませんよね。
よく分からない微妙な感じなので、有名にはならないよな思いますけど…笑
生の松原は駐車場がないので行きづらいですよね。
電車であれば下山門駅から歩いて行けますよ。
長谷川町子はどう見ても柴田理恵です笑
西新から防塁はすぐなんですね、はるか海寄りかと思っていて全く知りませんでした。
全体的に当時の海の近さに驚きますが、そこら辺は他の動画に収められているでしょう、見てみます。
埋め立て前は西新が砂州の海岸だったのです。
明治通りの動画で、かつての海岸地形の話をしていたと思います。
歩きや電車もいいですね。鎌倉時代は海水面が0.5メートル高かったですね。
歩きは、バイクや車の置き場を気にしなくて良いのと、ゆっくり移動しながら細かいところまで見られるのが良いですね。
平安から鎌倉時代は海水面が少し高かったんです。
ライコランドの作業待ちでは生の松原を散歩してます😅
良い場所なのに駐車場が無いからあまり人が訪れなくてもったいないなと感じました。
ライコランドありますね!すぐ横には井手ちゃんぽんも。
作業待ちに松原に出られるのは良いですね。
駐車場がないので、基本的に電車なのは確かに残念です(それも今回徒歩を選んだ理由の一つです)。
九州大学の演習林ということもあり、駐車場設置は消極的なのかもしれません。それに演習林から外れた僅かな土地に家やマンションが立ち並んだことから駐車場設置を難しいものにしています。
また、数年に一度生の松原で放火やバーベキューの火の消し忘れによるボヤがあるのを考えると、駐車場設置に二の足を踏むのは仕方ないと思います。。
鎌倉幕府が懸命に築いた防塁での戦闘は殆ど行われなかった。防塁を見た元軍は上陸をあきらめ対岸の小島に停泊し、防塁のない砂州でできた狭い「海の中道」で日本側と激しく戦い敗退し、さらに西の鷹島方面に移動した。つまり幕府軍本体は元軍の船の移動についていけず取り逃がしたのだ。鷹島では地元の日本の武士達と海戦になり、元軍は膠着状態の中で台風に襲われた。その後、ようやく幕府の本体が到着し、今度は本格的な掃討戦を弱体化した元軍に対しおこなった。虐殺に近い戦闘が起き、元軍の死者の大半そこで発生した。台風により元軍が一瞬で全滅したというのは後世のつくり話だ。
戦闘が博多だけではないということは知っていましたが、かなり蒙古軍は広範囲に逃げ回っていたんですね。
麁原山が一時占領されたという話もありましたが、元弘・弘安どっちだったか。いずれにしても、海の向こうへ攻め込むのは大変なんだなと思います。
志賀島に蒙古の墓があるのはそのためですか?
防塁と柴田理恵。。
似合ってる。。
似合ってます?😂️
前回のコメでは、百道浜の砂州(「土・砂州」と同じです)が産み出したさまざまな創出物について考えましたが、もう一点、肝腎な役割を失念していましたので、若干、追補させて下さい。
今でこそ、元寇防塁は、『史跡』として公的に保存・保護されています。しかし、元寇に付いてまわる「神風(カミカゼ)」のイメージが、前大戦で多くの若人を散華(サンゲ)させたアノ「神風特攻隊」と二重写しになったせいなのか、敗戦から長い間、防塁史跡は無視され、蔑(ないがし)ろにされてきました。むしろ、誰も目にしたくない“敗戦の負の象徴”とも見られていたフシすらありました。ただ、それは不当な責任の転嫁で、防塁と先の大戦敗北とは全く無関係なことは自明です。
もっとも、それは昔(17世紀初頭)から、「遺跡は、単なる過去の遺物・邪魔者」という考えも根強く、ライダーさんのコメにもありましたが、初代・福岡藩主の黒田長政が、福岡城建設の石材として防塁を利用し、これを破壊したという歴史も残っています。それは、エジプト・ギザの(クフ王の)大ピラミッド(金字塔)の表面の化粧石がハギ取られ、都市建設の石材として利用された歴史と同じです。
元寇の第二波(1281年の「弘安の役」)を前にして、国家存亡という危機感に動かされ、博多湾沿岸に20km余に亘って水際対策としての防塁網が造設されます。ただ、その役割を終えた後は、地表に見える分は、“ 邪魔者 ”扱いされ、ただ破壊を待つだけの石コロの山に過ぎませんでした。そんな風潮の中でも、土・砂に埋まった目に見えない分までも掘り起こして利用するまでには至らず、幸運な防塁は土・砂州に埋れていたお陰で、人的破壊を免れたのです。 その土・砂州は、愚かな人間の破壊行為から防塁史跡をソット覆い隠し、結果として、史跡を保全・保存するという天の差配ともなったのです。
昭和40年代の初めの頃、新たな人権として『環境権』の提唱がありました。その一カテゴリーとして「入浜権」(海浜保全)ともリンクする「史的・文化的環境権」の提唱もありました。この人権は、国や自治体の行政施策のプログラム(要綱)として史跡・文化財等の保全を命ずるにとどまらず、更に、国民が、裁判を通して行政の開発許可の「取消」や「無効確認」を求めたり、行政への現状の保全・回復等の「義務づけ」を求め得る、というものです。尚、同人権の(主観的)権利性については未だ未承認ではあるものの、その反射的効果もあってか、漸く、元寇防塁史跡も行政のプログラムよる保存の対象とされるに至って現状があります。行政も、その歴史・文化的な価値を認めざるを得ず、元寇防塁の調査に乗り出し、風雨に晒されて散逸した防塁の石のカケラを拾い集めてその修理・復元に着手し始めます。しかし、不可回復の部分もあり、長く無視してきたツケは少なくないようです。
要するに、海の土・砂州が、元軍の上陸阻止という功を果たした防塁史跡を、人的破壊から目隠しし、長い時間、保全・保存してきたということです。オリジナルの防塁の一部を何回か目にしたことがあります。しかし、再生・復元されたコピー(模造品)と比べると、迫力も臨場感も全く違います。国家存亡という国難を背景に造設された往時の防塁には、当時の国人(クニビト)の切なる想いや危機意識・国防意識が深くキザミ込まれていて、決して美しくはないものの、鬼気迫る迫力があります。人の「石を積む」という行為には、何か”祈り“のような精神性が込められているのかもしれません。そんな石達からは、「何時までも平和ボケしていられて、エエ時代ですネ」いう皮肉のツブヤキが聞こえてくるようです。………(多分)ソラミミかもしれませんが………。
なるほど、防塁は神風のイメージにとって邪魔者だった時代もあるのですね。
砂州に埋もれることで結果的に守られた、というのも納得です。百道地区では確かにほとんど埋まっていました。
修復された部分はどうしても石の色や風合いが浮いていて、本物とは歴史の重みが全く適いませんね。
生の松原の復元された防塁もそうでした。
当時は防衛という切迫した目的で作られましたが、今は学習用ですから、やはり石の表情も全く違うように見えますね。ありがとうございます。
今回もなかなか楽しい映像でした。
残念なのが、せっかく西南学院大学まで行ってらっしゃるのに、同校の校舎内にある復元された元寇防塁を御覧になっていないのが、実に残念!! まぁ、地形がわかるような場所じゃないので仕方ないともいえますが……。
西南大学構内の元寇防塁は、校舎内の1部を解放して復元してあるので、歴史に興味がある方は、同校内の元寇防塁(鎌倉時代当時の名称は「石築地(いしついじ)」で「元寇防塁」は近代になって考古学者が名付けた学術用語なのですが…)を是非視てください。誰でも自由に入れます。
ありがとうございます。
西南学院大学の中の防塁は看板を見かけたのですが、平日のみ公開と書かれていたので、行きませんでした。
なかなか平日に行ける機会が無いんですが、ぜひ見に行ってみたいと思います。
防塁の交差点から南に少し行くと,元寇の古戦場の蘇原(そはら)山があります.また,今宿から北へ,今津の運動公園のちょっと先にもまとまった防塁跡があります.
昔の表記は「麁原」ですね。まず使わない漢字です。
今津の防塁も見に行ったことがあります。箱崎にも砂州の下に埋まっているらしいですよ。
@@chiri_rider ああ,しまった.山(丘)の名前は未だに「麁原山」なんですよ.ボクが小学生の時の区画整備でここいらの地名が「祖原」に変更されて,地名,町名としては「祖原」になったという経緯です.
保存されてリアルに残っている今津の元寇防塁もご紹介下さい
今津も行ったことありますが、動画では未登場でしたね。見に行きたいと思います😊️
キャー!今日は、歩きなんですか。
ここあたりは、自転車が
よかごたぁですね。
確かに、自転車が一番良さそうですね。
元寇の第1波、「文永の役(1274年)」の古戦場の一つとなった(今はなき)“ 百道(ももち)浜 ”。この浜は、早良区の藤崎〜西新の北にあった海浜で、室見川と樋井川に挟まれ、東は地行(じぎょう)浜に接し、西は室見河口の愛宕山(元寇前は鷲尾山(権現)、その後は鎮西探題城、または姪浜城)を望む地勢にありました。この浜の名の由来は、この海が広い遠浅で、大潮の時季には広大な干潟が現れて、潮干狩りが楽しめたことから、大勢の人々の夥(おびただ)しい足跡が砂州に刻まれ、まるで“百千(ももち)の道”のごとくに見えた、ということにあるようです。事実、昭和30年代の初めの頃までの百道は、全く昔のままで、多くの人々が楽しめる絶好の海水浴場で、大潮時には潮干狩りが楽しめました。ただ、30年代の後半から、高度経済成長の中で(軽率な)都市排水の直接導入が始まり、富栄養化がこの海を徐々に蝕み始めます。それは別の話として……、
どうしてかような遠浅の海が生まれたのか。この両河川は、「中洲」という大きな三角州を持つ那珂川と異なり、三角州を持ちません。それは、この両河川の水体の流速が、海水圧を凌ぐ程に速く強かったのか(10cm/s{毎秒}以下で砂が、1cm/s、以下で泥が沈殿し始める、とするデータもあります)、土・砂が河口に洲を作らずに、そのまま海に流入し続けたのが原因かと思います。経験に照らすと、ここの干潟は、純白の砂ではなく、全体に灰色で、貝類が好みそうな栄養素の豊かな砂質だった記憶があります。しかし、後年、この海のその特質と汚染が(悲しい哉)「埋立て」化の遠因となります。
そんな海底の土・砂が、長い時間を経て、波の力で浜辺に運ばれ、それが風の力で陸側に吹き上げられて、東西にカマボコ状に長く延びた帯状の陸の複数の砂州(正確には「土・砂州」)が醸成されたのでしょう。砂漠の砂州が、風の力によって日々変化することはよく知られていますが、それは、時間のスパンを伸ばせば、地上の土・砂州でも同じことなのです。しかし、それにしても海とは不思議なもので、土砂の流入を繰り返せば海は土砂で埋まってしまう理屈ですが、現実はそうはなっていません。この海は、キット生きていて、土砂を外部に噴き出し続けることによって[ 自力浚渫 (しゅんせつ)]しているのです。その噴出が陸に土・砂州を間断なく作りつづけ、さらに数万、数十万年という長い長い時間の中で砂州の原材料が地下に沈み込み、地層化して20m〜30mという分厚い砂質土の地層をもこの地に作ったのでしょう。これらの一連の海の営みは、キット複雑な海浜生態系の一面なのです。
防塁の下地となった(噴出した)土・砂州の高さは(想像ですが)精々1〜2m程で、幅は10m前後だったのでは、と想像しています。この2m程の高さでも、防塁の2m〜2,5m分と、海浜自体の海抜・標高(海水面は常に変動)分を足すとMax, 5〜6m、程になり、戦略的には、その程度でも、敵軍を視覚的に威圧する防塁としては十分な高さでした。また、この陸の砂州は、サラサラと崩れるような脆弱な砂州ではなく、塩分のある土・砂州ですから、踏まれて陽に晒され固まれば一定の強度はあったでしょう。
防塁が造設された土・砂州の第一のライン(X1とします)が、動画にもあった、750 年前の、西南学院大学の校地内の(再現)防塁や史跡・防塁跡、また「元寇神社」のあったラインです。また、このX1,の南、500m程下った辺りに、当時、既に別のライン(X2)が存在していたか、又は形成されつつありました。このX2は、(後年)福博の街の背骨を形作ることになる「明治通り」で、旧・西鉄の市電が走り、現在の市営地下鉄が走っているラインです。そして、何の障害物もなければ、このようなラインが波打つかのように、X3〜Xx、へと続いていた可能性があります。しかし、X3、以下は、人為的な要因(畑耕作や整地等)によって消去されて、残っていません。x3以下の土・砂州の行方は不明で、長い時間を経て飛散・沈殿して地層化して行ったのでしょうか。上のX1、X2のラインは、百道(又、地行)浜が遺した目に見える唯一の存在証明(レーゾン・デートル)だったのかもしれません。
なお、前記のように、浜の土・砂洲は、複数のラインを作ったのみならず、長い時間の中で、早良(さわら)平野の北部(3〜4km)の地質である「砂質土」をも作りました。それは、市営地下鉄の建設に先立つボーリング調査で明らかとなりました。室見~藤崎〜西新駅の地下構造は、25m以上のぶ厚い砂質土が堆積しており、したがって、トンネル工法も地層の質に対応する工夫が求められ、当然、駅自体も約30mという異例の深さとなったようです。なお、砂質土が薄くなる(旧浜辺から南に4キロメートル辺りから)、50cmも掘ると真っ白な砂地が現れたり(この地域が古代には遠浅の海の底だったことを窺わせます)、また、「皿山」付近では赤土(陶土)層や砂岩(岩盤)が露出したりで変化もあります。意外かもしれませんが、昭和30年代の中葉の頃、皿山には砂岩を採掘する{石切場・採石場}もあったのです。
当地域は、地形的には、X1、を頂点にして、旧・筑肥線辺りのラインまで極めて緩やかに南に傾斜し、落ちこんており、それ以南はほぼフラットな水田地帯となっていました。その中間の昭代町の藤崎ポンプ場辺りは、下水道のインフラが整備されなかった時代には、少し大雨となると、タチマチ「内水洪水」を起こすのが常でした。今で想像できませんが、この路線以南には、油山の裾野まで続く広大な穀倉地帯だったのです。この平野の北部は、水ハケが良く(反面、水持ちが悪い)畑地帯で、南部は、水ハケが悪く(反面、水持ちが良い)水田向きの地質・地形だったのです。以前の筑肥線の西新駅辺りの呼称に、「大牟田」という時代もありました。それは、池沼が多い湿地帯を指すものです。このような土地利用の区分も、遡(さかのぼ)れば、百道浜の存在とX1、X2、等の存在、そしてそれによって定まった地質の変化等抜きにはあり得なかったのでは、と思います。1989年開催の「アシア太平洋博覧会(よかトピア)」の跡地に立っている「福岡タワー」を見るにつけ、それが、百道浜の墓標にも見えたりもします。幼い日々の想い出がタクサン詰まった百道浜は、私の中での永遠の「宝物」デス。
個人的な想いはトニカク、この百道浜からつながる早良平野の北部には、弥生後期から3〜4世紀頃の貴重な「藤崎遺跡」が発掘されており、土師器(ハジキ)の等の生活用具の他、大量の甕棺(カメカン)群(集団墓地か?)や、石棺内の“三角縁神獣鏡”が発掘されたりしています。その史跡は、食料庫でもあった百道浜とは指呼の間にあり、多分、多くの人々にとって、百道浜は生活の母胎であり、想いの詰まった”マホロバ“のような場所だったのです。百道浜は、多くの人々の想いが「百千(モモチ)の如くに」ウズクマル場所だったに違いありません。ただ、12〜13世紀の頃の当地の状況が今ひとつハッキリしないのが残念ではありますが…………。P、S、地理ライダーさんへ。また、カナリ長めになり、すみません!!
砂州が複数の列を形成し、その上に集落が帯状に並ぶことは地理的にもよくある、典型的な地形です。
福岡の砂州もそうなっているのですね。確かに、内陸の方は宅地化していて痕跡も失われている?もしくは、海水面の高さの変化で見えなくなっているのかもしれませんね。
かつての福岡平野と百道浜の光景、どんなものだったのだろうかと想いを馳せると、面白いですね。今は住宅だらけですが、非常に浪漫があります。百道は、「百千の浜」が語源なのですね。なるほど…。
色々と情報をいただきありがとうございます。
じっくり読み込ませて戴きました。鞍手に住み糸島を故郷としている自分には実に興味深いお話をありがとうございます。
いくつになっても、遠く離れで済んでいますが、15歳までの地は故郷ですね。歴史好きの自分にはもっともっと福岡が知りたくなります。
砂州は沖合にできる地形ですよね?
砂州は沖合に限らず、「海水面付近にできる地形」というのが正しいですね。
川が海水面の高さまで下りてくると、流れが遅くなって土砂の運搬力が弱まります。
この土砂が、海流などで一定方向に運ばれ積もってできるのが「砂州」です。
動画内でも少し触れていましたが、平安時代~鎌倉時代の頃は海水面が今より高かったので、西新の辺りが海岸線でした。
この元寇防塁の砂州は、当時の海岸線付近にできたものです。